理事長の遠吠え ~我吠える、ゆえに我あり~


バーンスタインの「華麗なる交易」読了。
さすがに「豊かさの誕生」を越えるものではなかったが、良書だと思う。相変わらずのデータ量を駆使。一体どこからこんな資料を探しだして来たのか!(16世紀のじぇのばのある商人の手紙とか)
保護主義と自由主義の国内の確執は、国歌が誕生して以来の問題。近代以降のデータによれば、意外にも保護主義を政策ととして採用した国は経済的に成長している。19世紀のアメリカは保護主義で自国内の工業と守った。(南北戦争は保護主義の北に対する南の離脱が原因だった。そして北が勝利している。)
無論、先進国の保護主義が2つの世界大戦の原因だから、保護主義が良いわけではない。「貿易の自由は、経済的なことよりも重要な側面がある」とバーンスタインは主張する。グローバル化は、人類の人類たる証だとして肯定する。のためには自由主義は必然だ、と。「自由主義により国内的にも国際的にも格差はできる。それは一種の必要悪だから、それを避けるために保護主義をとるのは誤りだ。その格差をどう扱うかが政治の最も重要な問題、というのが結論。
となるとピケティを読まねばなあ。

2015.03.15

人生って何だろ?

自分でも気恥ずかしくなるような問いだ。「人生って何だろう?」

こんなことを自問する時は、いい時であるはずがない。こういう時に、またグサグサと心にささる小説や映画や音楽に出会う。これは因果関係が逆なのかな?こういう時には普段と違って、そういう類いの小説や映画や音楽を求めてしまうのかも。

故郷で幼友達に会った。「オマエももう少し周りへの配慮があれば、違う人生だっただろうに」という言葉。以前だったら、「So What?」だったろうが、今はコタエる。「勝てば官軍」的に、誰が何と言おうと、自分が自分の人生に満足していれば、つまり「楽しければ、勝ちさ!」と思っていたからだ。

が、「自分が信じきっていた者に裏切られて、満足や幸福の源が砂上の楼閣だったと知った」今、友人の言葉に対して、「確かにそうだなあ」と思わずにはいられない。「反省はするが、後悔はしない」と臨み、「楽しかった」と思いこんでいた60年の人生は、とんだ陳腐なものだったのか。「楽しかった」と思っていたせめて残ったモノを大切にして、残った人生を送ろう。還暦とは斯様なことだったとは!ね。(還暦にして「自業自得」の意味を知る。)

2015.03.04

岸部のアルバム

かつての人気連続ドラマ「岸部のアルバム」。主婦役の八千草薫が可愛いかった。
表面的にはいい家族に見えるが、実は内部で崩壊していた。最後は、その再生に全員が同意するという救いのある終わり方だった。
家族って難しいね。知らないうちに崩壊していることがある。それでも同じ屋根の下で暮らす。だから分かり合えていると思うのは幻想なんだね。

「さかいく」に不定期連載中の「スポーツマンシップ」コラムの最新は、「サッカーで一流ビジネスマンを育てる」。これを読んで、NAC5が番組で取り上げたい、と。土曜の朝9時からの番組で20分ほどのインタビューだった。

スポーツは「脳と身体の統合」をトレーニングする最適の機会。脳を鍛え、身体を鍛え、脳と身体とのシンクロを鍛える。これは人間以外には不要。なぜなら人間は本能が壊れているから。

スポーツのルールには、本能では対応できない面倒な項目がたくさんあり、ゲームの最中はルール違反の誘惑に常にさらされている。しかし、そもそも、なぜそういった面倒な項目が設けてあるのか?サッカーのオフサイド然り、ラグビーのスローフォワード然り、バスケットのダブルドリブル然り。いずれも得点するためには障害となる。

スポーツはそういった「障害を設けてゲームをするのが楽しい」という原理がある。これ原理だからルールには書いてない。原理を理解し、自分以外の他者(ルール、相手、審判)の存在意義を理解し、良いゲームをする心構えが参加者には必要だ。

例えば、ヤル気のないプレーやふてくされた態度は、自分以外の参加者の楽しみを奪うために、ルール違反でないが許されない。ゲームに参加する全体がスポーツへの尊重だ。この心構えは、ゲーム前に「覚悟」として宣誓しておく必要がある。それが選手宣誓だ。スポーツマンシップとは、「スポーツを尊重する心構え」のことなのだ。

これは言うはや易く、行うは難し。宣言は実践されなければならない。常に冷静でいられるか?ルール設けられた罠にかからず、自分のむき出しの欲望を抑えられるか?周囲を俯瞰できるか?目的整合的に計画し、実行できるか?失敗した時に、自分以外のせいにしないか?そして次ぎに備えることができるか?勝ってもおごらず,更なる高みに向けて努力でるか?

これらができると真のスポーツマンになる。以上が、スポーツマンは一流のビジネスマンになる資質を備えている、という所以だ。

2015.01.03

新年のメッセージ

昨年末に「新年のご挨拶」を用意しようか、とも考えたが、「新年のご挨拶」は、やはり新年を迎えてからすべきだ、と思い直した。

そして、ここで改めて「新年のご挨拶」をしようと思うのだが、礼儀としての挨拶ではオモシロくない。

そこで、「スポーツマンシップとビジネスパーソンシップ」についてのコラムを載せて、新年のご挨拶に替えることにしよう。

かつて「スポーツマンシップ立国論」を著した際、贈呈した中から「スポーツマンシップとビジネスパーソンシップとの共通点が多いことを発見した」という内容の礼状を頂いたことがある。日本郵便の最初の総裁だった生田正治氏からだった。ちゃんと、しかも正確に読んで頂いたことに感激した。やはり一流人は違う。

その時から、いつか「スポーツマンシップとビジネスパーソンシップ」の関係を整理しなければならないなあ、と考えて今日まで時が経過した。

スポーツマンシップの核は、「尊重(Respect)」と「勇気」である。リスペクトとは、人や組織や制度への本質的な理解のことだ。易しく言えば、「存在意義を認める」ことだ。こういうと簡単なようだが、実は難しい。ほとんどの人はできていない。

スポーツマンシップを理解しないでスポーツをしていることがその典型だ。(と言えば、ほとんどの人ができていない、と納得されるだるう。かく言う私も知ったのは齢40を越えてだった。つまり現役の時は、スポーツマンシップを理解せずにサッカーをしていたのだ。)

もう一つの「勇気」は「実践」に関わることだ。アリストテレスは、「全ての行動には倫理的な側面がある」と喝破した、岸田秀的に言うなら、「人類は本能が壊れてしまったために、考えずに行動ができなくなった」のだ。

この2つの能力は、自然に身に付くものではない。修得するにはトレーニングが必要だ。社会が成立し、国民国家ができると、この2つの能力を修得した「国民」の育成が、教育における国家的な最優先の要請事項になった。世界に先駆けて国民国家を作り上げた英国は、「スポーツ」を通じて修得させることが最も有効であることを発見した。(修得に効果的なように従来のスポーツを再構成し完成した、という側面もある。)

つまりスポーツマンシップは「国民・市民・社会人」の基本的な行動原理なのだ。

そこで、スポーツマンとして育成された社会人が、「ビジネスの世界ではどう行動すべきか」という問題に移る。言うまでもないが、これがビジネス・パーソンシップである。(スポーツマンシップが「尊重」と「勇気」である以上、ビジネスパーソンシップもこの2つが基盤になっている。)

下記はビジネスパーソンシップの「心得」(つまり行動規範)である。

  • ビジネスパーソンシップ心得:

・あなたは言われた仕事を、ただこなして満足していないだろうか?それとも、自分に与えられた課題の意味を考え、成果を定義してから取り掛かっているだろうか?

・あなたは、問題の背景や、因果関係を考えずに解決に着手しようとしていないだろうか?

それとも、問題の原因を考えて、どんな領域で、どういったフレームで対処すべきか考えた上で、成果を定義し、解決のプロセスを考えているだろうか?

・あなたは、自分なりに考えもしないで簡単に質問していないだろうか?その質問は、本当に切実で重要なのだろうか?その質問の答えを得るために、自分がどれほどの努力をしているだろうか?

・あなたは、仕事の成果をoutputとして満足していないだろうか?それとも、成果を次のinputとして、次の課題に活かすことを考えているだろうか?

・あなたは、現在の職場や仕事が自分に合わないなぁ、と不満を持ち、何となく身が入っていないのではないだろうか?

それとも、与えられた持ち場において、一流を極めたいと考えて日々努力しているだろうか?

一流のビジネスマンは、どんな職場でも一流を目指す。二流は逆にどこに行っても二流に留まる。そして留まる理由を、常に自分以外の環境のせいにする。

2014.12.31

2015年に吠える

あと1時間で2015年を迎える。

私にとっては暦が還ることになる年だ。「人生五十年」と謡いながら散った織田信長よりも10年長く「下天の下」を生きてしまった。30歳の時に現在の自分を想像し得たか?無論、ノーだ。こんなに波乱万丈な人生になるとはねえ・・・が。が正直な感想だ。

人生において、「豊かさ」とは何か?これは「今を生きる人間」の永遠のテーマだろう。(逆に、これを問わないのは人生を生きていない、と断言できる。)

恒例の「年末、餃子の食い納めの会」で、昨年の知事選の経験で新たに得たもの、失ったものは何か?と若き友人に問われた。「失ったものなどあるはずがない。同時に、新たに得たものも無かった」と回答した。「得たものはない」は実はネガティブではない。「自分を失わなわずに走りきったこと」が最大の収穫だから、ステータス・クオを肯定していると言えなくもない。が、アレだけ違う世界において、これまでの自分を通しきったことは、「間違っていなかったことの再確認」を果たしたとも言えるはずだ。

傲慢と言われる批判を承知の上で言わせてもらうが、これまでの自分の生き方を今後も貫き通す自信が強まったこと。これが最大の収穫だった。これからも吠え続けるだろう。「是は是」「非は非」と。所詮「遠吠え」かもしれないが。