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2013年2月8日

■「体罰問題」について (「体育」から「スポーツ」へ)

「桜宮高校」事件や「女子柔道代表選手」事件などが相次いで表ざたになり、世間を騒がせています。メディアの取り上げ方も尋常ではなく、この問題への関心が国民的レベルで高まっているようです。

当NPO「スポーツマンシップ指導者育成会」は昨年の年末に設立されたのは、「スポーツと体育の違いを明確にし」「小学校段階からスポーツ教育を行い」「スポーツの指導を通じて、人格教育を行う」と提言するためでした。

「スポーツマンシップ」の取り扱いこそが、現在の日本のスポーツにおける最も本質的な問題だと認識しております。実は「体罰問題」もこの本質問題から派生した一つの現象です。「体罰」を止めれば問題が解決する」などと考えるのは的はずれでしょう。

スポーツの母国の英国では、19世紀の後半に、かなり意図的かつ政策的に現在のようなスポーツが教育ソフトとして完成されています。その後、後発の国民国家は、先発の欧米、特に英国を模範として、国づくりをしていますが、スポーツも例外でなく、各国の政府によって積極的に採用されていきました。これが結果的に、20世紀を通じてスポーツが世界化する背景だったのです。(詳しくは、「スポーツマンシップの源流」と「スポーツの世界化」という講義が当方のHP内に動画で見られるようにしてありますので、ご参照ください。

初代文部大臣の森有礼は、「国民教育の要諦は、知育/徳育/体育の3つである」と言いました。スポーツは、「知育」+「徳育」+「体育」だと言い切ってもいいでしょう。森は「体育」と「スポーツ」を混同したのではなく、選択したのです。それは森が外交官としてロンドン滞在当時、英国は強力な中央集権国家を確立していたプロシアを脅威に感じていたという事実と無関係ではありません。森はプロシアの体育を選択したのです。

「体育」は優秀な兵士を育て、「スポーツ」では優秀な将校を育てます。兵士とは、将校の判断に基づいた命令を忠実に履行する者なのです。「富国強兵」を目指す明治政府にとって、「優秀な兵士を育成することが火急の課題」であると考えた、森の判断は合理的でした。問題は、既に敗戦を経験し、平和憲法を持ったわが国において、未だに兵士養成のための「体育」が行われていることなのです。「体罰」の可否は、その時代における「養成すべき人材モデル」との整合性という観点で議論すべきことです。「昔、俺達は殴られて強くなった」という体育関係者がいます。彼らが間違っているのは、21世紀の現在、彼らのような人材が育成モデルとなっていない点に無自覚だからです。「殴らなくても強くなる」と言う意見も同様です。「スポーツは、本来、自主的な思考」を身につけるための最強の教育ツールであり、21世紀の今日、「自律した思考」が「求められる人材モデル」には不可欠なので、「体育」を廃し、スポーツを開始すべきなのです。

具体的には、小学校の4年生までは「体育」のままにし、5年生以降(6年生、中高生)の授業名を「スポーツ」にする。そして、5年生の最初の授業で「体育とスポーツの違い」を明確に説明する。(授業案は下記を参照してください。)これだけで、現在の「体罰問題」、あるいは「体育会的」と称される「抑圧的な文化問題」の大半は解消するはずです。一昨年、わが国にもついに「スポーツ基本法」が制定されました。スポーツを教育に導入すべき時機が高まっていると言えるのではないでしょうか。

以下に5年生が最初に行う「授業案」を提示します。

「スポーツ」授業(5 年生の 1 回目)「体育」との違いについて

初代文部大臣の森有礼は、「国民教育の要諦(基本)は、知育と徳育と体育だ」と規定しました。「知育」とは、考える力や、知識を身につけることです。「徳育」とは、「善悪」を判断し、勇気をもって実行する能力を身につけることです。善悪を正しく判断するためには、「正しい知識」を 身につけることが欠かせません。「体育」とは、正しいことを実行するために必要な健やかな体を鍛えることです。

皆さんは、4 年生までは「体育」を受けてきましたが、5 年生になるとある程度の知識や判断力がついてきたので、いよいよスポーツをする段階に進みます。スポーツでは、「知力」と「徳力」と「体力」が要求されます。まだ幼い子どもは、先生や家族の誰かが「判断」してくれ、やることを決めてくれますね。しかし、大人になるとそうは行きません。ですから、「スポーツをする」ということは、「大人になるためのトレーニング」が始まったと言ってもいいでしょう。大人になるということは、どういうことなのか、ちょっと考えてみましょうか?大人と子供の違いは、「体の大きさ」や「力の強さ」だけにあるわけではありませんね。大人には、大人らしい考え方や振る舞いが求められます。例えば、「勇気」はどうでしょうか? あるいは、周りの人と上手く折り合ったり、ワガママを言わずにすべきことは苦手なことでもする、など色々とありますね。(ここでは生徒から「責任感」や「我慢強さ」「周りへの配慮」「広い心」などのキーワードを引き出す。)

では、そういった能力を鍛えるにはどうすればいいか?そのトレーニングができる最大の機会を「スポーツ」では用意してあるんですね。元々、スポーツはイギリスで生まれたもので、200 年くらい前までは「体を使った遊びや気晴らし」のことを意味していました。代表的なのは狐狩りでした。楽しければいいので、ルールも場所によってまちまちでした。それが、大体今から 150 年くらい前にパブリックスクールという学校で、ルールが統一されていきました。そして、学校で行うスポーツは「紳士を育てる」ように形式が整っていきました。その後、当時一番の先進国のイギリスを見習って国を作るところ増えていき、それらの国では国民を教育するのにも、「イギリスのスポーツ」を模範として取り入れていったんです。今では世界中に広まっているスポーツの母国が英国だ、と言われるのはそういう歴史があるからです。

 

実は、最初に触れた初代の文部大臣となった森有礼という人は、ロンドンに駐在していた外交官だったんですが、欧州視察中の伊藤博文という初代の総理大臣になった人に会って、文部大臣を頼まれたんですね。だからスポーツが教育に良いのを知っていたんです。イギリスは紳士の国ですが、紳士(ジェントルマン)になるためにもスポーツは必要だと考えられています。「スポーツマンシップ」って聞いたことがありますか?では、「スポーツマンシップに則って、正々堂々と戦うこと」を誓う、選手宣誓を知っていますか?では、「スポーツマンシップ」とは一体何のことなんでしょうか?ここが分からないと、「体育」との違いが理解できないので、最後にこの言葉の説明をします。スポーツで一番重要なのは、「尊重」するということです。スポーツで尊重する対象は、「ルール」と「審判」と「選手」の 3 つです。選手の中には、味方だけでなく「相手」も含まれます。何故でしょうか?(「相手」を「敵」と言うのは、下品なのでやめましょう。)それは、この 3 つが存在しないと「スポーツ」が成立しないからです。尊重というのは、この 3 つの価値を認めるということです。この価値を認めると、「相手に向かって汚いヤジをとばし」たり、「審判に文句を言った」り、「見つからないように故意にルールを破った」りしません。実際にスポーツをすると、面白いので時々興奮し、我を忘れてしまいますね。そして、文句や愚痴を言ったりしてしまいがちです。でも、スポーツマンはそういうことをしません。そういう時でも冷静でいられないと紳士とは言えません。興奮して我を忘れてしまって、下品な振る舞いをすると、「楽しく」なくなりますね。スポーツは本来、遊びであり、「プレー(PLAY)」するものです。遊びの目的は「楽しむ」ことです。スポーツでは、楽しむために「勝つこと」を目指します。もちろん負けるのは悔しいのですが、少なくともスポーツをプレーすることは楽しんでいるはずです。もし、負けることでスポーツが楽しくないのだったら、それは「スポーツをプレーした」とは言えないのです。整理をすると、スポーツマンシップとは、「スポーツが楽しむためのプレーであることを理解し、相手と審判とルールを尊重する覚悟」のことなんです。オリンピックの開会式では、その覚悟を宣誓することが、選手だけでなく審判にも求められています 。宣誓する以上、それは押し付けられたものではいけません。自分が自主的に判断し、決断して、初めて宣誓には意味があるからです。そうでなかれば嘘つきになってしまうでしょう?「自主的」かどうかは、スポーツと「体育」の最大の相違点です。コーチや監督の言うことをそのままやっていて、世界的な選手にはなれません。ただし、判断には責任が伴うこともお忘れなく。この責任がとれないので、幼い子どもにはスポーツはできないのです。説明は以上です。皆さんは、スポーツを正しく理解し、楽しんでください。正しく理解をしてスポーツを楽しむと、ちゃんとしてスポーツマンに、そしてちゃんとした、「ステキな大人」になれるんですよ。